2013年10月の目次

10月1日 (火)    FIFA U-17 ワールドカップ UAE 2013■サッカーな話
10月2日 (水)    ピンクリボン授賞式■ふと思ったこと
10月3日 (木)    56年見てきた右手■ふと思ったこと
10月4日 (金)    今年はあと4試合■サッカーな話
10月5日 (土)    第29話 第三者の目    ■なぜ私は三井ホームで家を建てたのか

10月6日 (日)
10月7日 (月)    じゃあ、あのビールは…■こんなコピーを書きました
10月8日 (火)    ・・・なにがコピーだ■メモした言葉
10月9日 (水)    人生苦しい時は…■メモした言葉
10月10日(木)    一番カッコ悪い言い訳■こんなコピーを書きました
10月11日(金)    背番号21の理由    ■サッカーな話
10月12日(土)

10月13日(日)
10月14日(月)    …出社は明日から。■こんなコピーを書きました
10月15日(火)    貯金をしない by ミーハー仕事術■メモした言葉
10月16日(水)    違うふたりが、同じことを…■メモした言葉
10月17日(木)    会ったこともない人を、泣かす。■こんなコピーを書きました
10月18日(金)    走りながら笑う    ■メモした言葉
10月19日(土)

10月20日(日)
10月21日(月)    がんばれNTT がんばるKDDI    ■こんなコピーを書きました
10月22日(火)    天野祐吉さんの言葉    ■メモした言葉
10月23日(水)    美しい日本語■メモした言葉
10月24日(木)    No.2だからヤンチャできる。■こんなコピーを書きました
10月25日(金)
10月26日(土)

10月27日(日)
10月28日(月)    スローガンより実行せよ。    ■こんなコピーを書きました
10月29日(火)    西村さんを追いかけて■ふと思ったこと
10月30日(水)    コピーライターは歩く   ■メモした言葉
10月31日(木)    10月の目次■今月の目次

コピーライターは歩く

ウールマーク

TCCのパーティで西村佳也さんと中島祥文さんの2ショットがあった。
国際羊毛事務局の名作の名コンビにお会いできた。
ボクがトンプソンへ行くきっかけとなった西村佳也さん
ボクがトンプソンで営業だった時、クリエーティブ局長だった中島祥文さん。
こういうレジェンドにお会いできることもTCCのいいところだと思う。
そして、貴重なお話を直接聞くことができた。
(興奮して写真を撮るのを忘れてました)

「触ってごらん、ウールだよ。」のB倍ポスター。
それが掲出されたとき、西村さんは駅に見に行ったそうだ。

「おばあさんがそのポスターを触っていたんだよ、うれしかったなぁ」

ボクも自分の仕事が世に出たときはその場所を見に行くことにしている。
そのコピーが届いているかを感じるため。
そして、コピーも読まずに通り過ぎる人がいる「現実」を直視するため。

そして、「さくさくさく、ぱちん。」
大学生のときこれを見て、たったこれだけの平仮名で、
「音」を文字で書くことで、ウール生地の上質な質感を表現している。
コピーライターという職業のスゴさを感じた。

西村さんはこの仕事の時、
ADの中島さんと一緒に銀座の英國屋などの老舗テーラーを、
何軒も何軒も、それはもうたくさん回ったそうだ。
そこで聞いたはさみの音がコピーライターの記憶に残ったのだろう。

会社の机の上、パソコン画面の前では書けなかったコピーだったのだ。
やっぱりね。

西村さんを追いかけて

西村さんからの年賀状西村佳也さんからの年賀状より

初めて西村佳也さんの名前を見つけたのは、磯子図書館のコピー年鑑だった。コピーライターになりたくて勉強していた大学生の頃、図書館に一冊だけ1975年のコピー年鑑があった。そこでウールマークの広告を見て西村さんの名前を知った。「さくさくさく、ぱちん。」国際羊毛事務局の仕事だった。そのクレジットには「AD:中島祥文 C:西村佳也  制作:JWトンプソン」と書いてあった。だから、J.W.トンプソンの入社試験を受けた。

苦しい就職活動の末、見事トンプソンに就職が決まった。入社して間もなく、西村さんに早く会いたくて、先輩に訪ねた。
「コピーライターの西村佳也さんは何ルームにいらっしゃるんですか?」
するとその先輩は
「西村さんは、フリーだよ。トンプソンにはいないよ」
いない?え?フリーって何ですか?コピー年鑑のクレジットに名前があって、最後に会社名J.W.トンプソンとあったから、てっきりみんなトンプソンの人だと思っていた・・・。

結局トンプソンは1年ちょっとで退社することになる。転局試験を受けるべく準備(作戦A・作戦B)していたが、サン・アドのコピーライター募集に運良く受かったから。サン・アドの一員になれるということは、OBの方々とも近づいたことになる。西村佳也さんもサン・アドのOBだ。いつか会えるかもしれない。しかし、なかなか会えなかった。

電通に移籍して、30代後半の頃。代官山の今は亡き「MORGANS」というBARによく行くようになる。そこのママ、多映子さんにコピーライターの名刺を渡すと
「西村さんも時々いらっしゃるわよ」と。
「西村さんって、まさかあの西村佳也さんですか!」

ある夜、ついに西村佳也さんにお会いすることができた。

自己紹介すると、
「知ってるよ、仲畑のとこの中村禎だろ」
と笑いながら頭をはたかれた。うれしかった。サンアドのOBです、ということと、西村さんを追いかけてトンプソンに行ったのにいなかったじゃないですかという話を、やっと伝えることができた。

以来西村さんとは中目黒の「わかな」でもお会いすることもあったりして、仲良くさせていただいている。KDDIの仕事でグランプリを獲ったときもMORGANSで
「良かったなぁ。中村、良かったなぁ」
とニコニコしながら何回も頭をはたかれた。うれしかった。

その西村佳也さんが東京コピーライターズクラブのホール・オブ・フェーム、コピーライターの殿堂入りされた。授賞式で久しぶりにお会いできて、
「おぅ!」
と声をかけていただいて、これまたうれしかった。

スローガンより実行せよ。

スローガン
———————————————————-
*一応「Designing The Future」という企業スローガンを掲げていますが、

スローガン
より
実行せよ。

2000年 KDDI
———————————————————-

そして欄外に

———————————————————-
◎この新聞広告を、社内のあちこちに貼る予定です。
———————————————————-

企業スローガンって言いっ放しで勝手なものが多いと思いません? 個人的な感想ですが、立派なことを言うだけで、それで気が済んだ、と言わんばかりなものが多い。もちろんそうではないスローガンもたくさんあります。 KDDIにも「Designing The Future」というスローガンができていました。「できていた」のですから、ボクらがつくったものではありません。まあ、こうありたい、という気持ちはわかるのですが、そんな言葉は社内だけで共有すればいい。このスローガンを大きく扱った広告なんて、ボクは見たいと思わない。それを世の中に見せびらかすより、そういう「Future」を商品やサービスというカタチで世の中に提供すればいい。そう思ったので、このコピーを提案しました。

そして、一番言いたかったことは「欄外」に書きました。このコピーは牛尾会長がOKしてくれた。つまり、会長からKDDIの全社員に向けたメッセージでもあるんだと言いたかった。実際に貼ってくれたかどうかは、どうだったかな。社員用の掲示板に貼ってくれたんでしょうか。そこまで確かめることはできなかった(誰かKDDI社員の方、ここを読んでいてくれないかしら)ま、貼ってくれてたような記憶(希望的憶測)もあるんですが、このメッセージを世間に掲載したという事実があれば、やらないわけには行かないぞ、という狙いのコピーでした。企業スローガンはユーザーへの「約束」であるべきだと思うからです。

No.2だからヤンチャできる。

ヤンチャ新聞

———————————-
No.2だからヤンチャできる。

2000年 KDDI
———————————-
この仕事をしていた頃の佐々木さんとのことを思い出した。

当時佐々木さんは、たくさんのクライアント作業を抱えていて外出先から戻ると、待ってましたとばかりに、いろんな営業部長が佐々木さんのうしろを金魚のフンみたいにくっついて歩いていた。みんな佐々木さんの判断を仰ぐために。会議中も他の仕事の電話がじゃんじゃんかかってくる。ボクらの打合せ中、コピーを見てもらっている最中にもケータイにかかってくる。あまりにも中断されるので、ボクは頭に来た。ボクらは時間を調整してこの会議室に集っているのに、なんで他の仕事の電話に邪魔されないといけないんだ、と。ボクはガラス張りのその会議室を出て行った。そして外から佐々木さんのケータイに電話したのだった

「で、佐々木さん。そのコピーでいいですよね。よかったらボク、もう帰りますけど」

佐々木さんはすまなそうに、ガラスの向こうにいる中村を見つけてペコリ。そりゃそうだろ。約束して会っている人より、かかってくる電話を優先するのっておかしいじゃんか。。

それともうひとつ。佐々木さんのディレクションはボクにとっては理解できた。が、何をすればいいのかわからなくなる人もいるだろうとも思う。ハッキリ方向を示すというより、「なんか違うんだよな」「面白くない」「例えば・・・みたいなカンジでさぁ」この例え話でピンとこなかったら佐々木さんのディレクションは難解かもしれない。

あるとき「セ・リーグ vs パ・リーグ、じゃないんだよな。セ・リーグ vs Jリーグ、ってカンジなんだよな」とおっしゃる。ボクは、そっか、そういうことか! と視界が開けたのを覚えている。クリエーティブ・ディレクターにハッキリと「こうしろ!」といわれるより、こういう「イメージ的なディレクション」もボクは悪くないと思う。ただし、これはお互いのセンス(とか審美眼)が近いことが前提だけどね。

今回の欄外コピーは、これでした。
—————————————————————-
◎そういう意味で、ずっと業界第2位も、いいかもしれない。
—————————————————————-

美しい日本語

皇后陛下

——————————-
「大震災とその後の日々が、
 次第に過去として遠ざかっていく中、
 どこまでも被災した地域の人々に寄り添う気持ちを
 持ち続けなければと思っています」

 皇后陛下
——————————-
美智子さま。数年前、たまたま両陛下をお見かけしたことがあった。横浜のホテルニューグランドでカレーライスかなんか食べていた時、ホテル前の道にニューグランドの従業員たちが全員ソワソワ並ぶものだから、だれかVIPでもくるのか?とその列に並んでみたら、そこに通りがかったクルマの列に天皇皇后両陛下が。なんか感動して涙が出そうになったことを憶えている。(実際涙はでた)自分は日本人なんだなあと、しみじみ思えた日があった。

その時にお会いした(正しくいうと見かけた)美智子様が10月20日がお誕生日だという朝日新聞の記事。福島原発のニュースは出ているけど、東日本大震災による避難者が今も28万人を越えているという事実がそんなに知られていないだろう。28万人….。満員の国立競技場の6倍…。

皇后さまのお誕生日の記事。一分のムダの無い「言葉」に背筋が伸びた。美しい日本語。その人の声が聞こえてきそうな「言葉」。贅肉がない言葉はやっぱり美しいなぁ。と同時に、忘れてはいけないことを、ちゃんとおっしゃってくださっている。この言葉を聞いた東北の方々がどれほど勇気づけられたことだろう。欲を言えば、新聞の一面に、この記事を出して欲しかった。ボクは美智子妃殿下のファンであります。

追伸:公共広告機構はこの言葉をみんなに知らせてくれないだろうか。日本人全員に。

天野祐吉さんの言葉

養成講座ノート1養成講座ノート2
第38期コピーライター養成講座東京Cクラス出席番号9番中村禎のノート
天野祐吉さん1天野祐吉さん2

——————————-
広告は批評である。

批評とは、つくりかえの提案である。

すぐれた批評は最良の広告だ。

天野祐吉
——————————-
1979年4月20日金曜日。ボクが大学4年の春に通ったコピーライター養成講座、当時のノート。「生活者の広告表現の過去・現在・未来」という講義。天野祐吉さんの講義のノートだ。授業中にこんなキレイな字は書けないはずなので、たぶん家に帰って復習して書き直したのだと思う。天野さんの言葉で今でも憶えているのは『広告は批評である』『批評とは、つくりかえの提案である』『ヘタな広告より、優れた批評。すぐれた批評は最良の広告だ』という言葉。30年以上前に教わった言葉の中に今でも生きている宝石のような言葉がたくさんある。

天野さんは自分の独断だという断った上でこう言っていた。
——————————-
広告とは商品を語ることを通して、商品をダシにして、己を語るものだ。
その「己」とは、みんなが持っているが、自覚していないような、
大衆との共通部分の己。同時代の人々の声なき声に形を与える。
——————————-

そして、開高さんのコピーを例にこう言っていた。
——————————-
『人間らしくやりたいな。
 トリスを飲んで人間らしくやりたいな。
 人間なんだからな』
 の『人間なんだからな』の部分が決め手なんだ。
——————————-

昭和10年の片岡敏郎さんのコピーを例にこう言っていた。
——————————-
『不景気か? 不景気だ。
 赤玉ポートワイン、飲んでるか? 飲んでない。
 そうだろう。』の『そうだろう。』が決め手なんだ。
——————————-
この話は、鮮明に憶えている。ボクのコピーも、そういう部分を見習いたい、真似したいと思って書いて来たのだと思う。その天野祐吉さんがお亡くなりになった。ボクのコピーは天野さんにはほとんど批評されもしなかった。まだまだだな、と思われていたのだろう。もう天野さんに批評していただくことは叶わないが、いつもどこかで見ていてくださると思って、これからも精進します。ご冥福をお祈りいたします。

がんばれNTT がんばるKDDI

KDDIがんばる10月2日月曜日の朝刊15d。この朝刊を見たNTTの社員はどう思うだろう。KDDIの社員はどう思うだろう。それを想像しながら出社した朝でした。

—————————
がんばれNTT
がんばるKDDI

2000年 KDDI
—————————

大きな仕事でしたから、当然代理店数社による大競合大会だったそうです。「だったそうです」というのは、ボクらは競合ではなかったから。KDDとDDIとIDOの3社が合併するわけですから当然社長も3人いただろうし、宣伝部長も3人いたのでしょう。当然、なかなか話が決まらなかったそうです。それに業を煮やした会長、牛尾電機の牛尾治朗さんがついに、『そんな競合なんかで何社にも案を出させてもダメだ。電通に佐々木というのがいるらしいから、その男に依頼せよ』となったようなのです。その頃、佐々木さんはいろんな仕事で目立っていたから有名だったのでしょう。『佐々木に頼め』と牛の、いや鶴の一声です。こうしてKDDIの作業が始まるのですが、その話が来たのがもう夏休みも終わろうとしていた頃。合併は10月1日。時間がない。予算はあるが時間がない。結果的にこれが良かったのだと思います。時間がないから、決断が早い。早くしないと間に合わないからね。

しかし、この仕事がうまくいった一番の理由は、佐々木さんと牛尾さんが最初にふたりで話し合ったことだと思います。そこで目指す方向が確認された。ふたりで話してお互いに信頼関係が生まれた。本来、仕事とはこうあるべきです。クリエーティブ・ディレクターとクライアントのトップ(もしくは決定者)が1対1で話す。プレゼンもその1対1でいい。決定しない人や決定できない人にプレゼンしても意味がない。ほんとうに意味がない。

目指すべき場所が一致しているから、このコピーも一発OKでした。こうしてNTTとKDDIが並ぶと、対等なカンジがするでしょ。でも現実は巨人と小人くらい(曙と舞の海くらいか)企業としての規模の差があったから、タイマン張ります、という宣言でした。相手は「へ」とも思ってなかったかもしれませんが。このコピーは、対等に闘いましょう、という宣言でもありました。

この原稿はたしか10月2日月曜日の朝刊。10月1日から5日くらいまでの連続15dだったと思います。下には小さく「◎国際電話の001と国内電話の0077と携帯電話のauとインターネットのDIONの集合体。KDDI,スタート。」と入れました。

(このコピーは事前にNTTさんにも了解を得ました。名前を使わせてもらってますからね。電通の営業が、そこは頑張って了解をとってくれました。このコピーが世に出たのは、多くの人の勇気や苦労のおかげ。感謝です)

走りながら笑う

わかな3 19年前の黄ばんだハガキ

——————————-
走りながら笑う

わかな
——————————-
中目黒の「わかな」という小料理屋の話、その②です。(その①は、人生苦しい時はのぼり坂)このハガキは、「わかな」二周年の時の挨拶状。2年目から土曜日も営業することにした挨拶です(今は土日休みだそうです)

コピーはわかなさん、文字はボクの字です。「走りながら笑う」って、いいでしょう。すごくいいと思うんですよね。わかなさんという超ショートヘアで小柄なちゃきちゃきのお母さんが、カウンター8席くらい、テーブル席に6、7人の小さな店をずっと一人でやっている。毎日魚や野菜を仕入れて背中にリュックを背負い、両手に袋を持って、タッタカタッタカ歩いていく。無我夢中で働いて、忙しい時には無愛想で、でも辛そうな顔は絶対見せない。だから、走りながら、笑う。走っているときはキツい時もある、苦しいときもある。だけど、笑う。とても「わかな」っぽいと思います。(と、わかなさんを知ってる人はきっとそう思うでしょう)

その「わかな」が昨年20周年だったということは、この2周年のハガキは1994年のもの。何年かぶりに「わかな」に行ったときまだ持っていて、見せてくれました。黄ばんでいるところがなぜかうれしかった。また、忘れた頃にふらっと行きますか。

会ったこともない人を、泣かす。

書く語りき

広告の業界誌などに書いた文章も「こんなコピーを書きました」でまとめておこうと思います。ちょっと昔に書いた文章ですが、今も、これからにも通ずる部分があると思い記録しておきます。2008年に発刊されたコピーライター養成講座 50周年記念ブレーン別冊「コピーライター、書く語りき」に寄せた文章です。
————————————–

会ったこともない人を、泣かす。

JWトンプソンの営業をしていた頃、コピーライター養成講座の専門コースに通っていた。岡田耕さんのクラスだった。その岡田クラスを卒業してサン・アドに入社が決まり、リクルート「とらば〜ゆ」のコピーを書いていた、まだ駆け出しの頃。久しぶりに岡田耕さんとお会いする機会があった。

「言おうかな〜どうしようかな〜。悔しいから、言うのやめとこうかな〜」と、いたずらっ子のような目をして岡田さんは話し始めた。

「実はね、リクルートの人から聞いた話なんだけど。新潟に住んでいる中学生の女の子がね、中村君のコピーで、泣いたっていうんだよ」と。

当時、リニューアルした就職情報誌とらば〜ゆのCMで、「新しく、なりたくて、なりたくて、なりました。新しい、とらば〜ゆ」というナレーションコピーを書いた。自分の書いたコピーが、会ったこともない遠く離れた人の気持ちに刺さったのかと思うと、こっちが泣きそうになった。

コピーが人に届いたんだという快感。この感動こそが、広告というしんどい仕事を続けさせてくれるエネルギーになっているのかもしれない。このとらば〜ゆのCMは、何の広告賞も獲らなかったけれど、恩師岡田耕さんからは勲章をいただいたと思っている。そして今でも、仕事で気持ちが折れそうになると、この話を思い出す。広告をつくる仕事を選んでよかった、と。(コピーライター中村禎)

————————————–